【読書記事】ネット炎上の背景には「外的コントロール理論」が…
2016年04月25日
おはようございます。
いつも当ブログをご愛顧いただきありがとうございます<(_ _)>
今回は、以前書いていたファンブログからこの記事を抜粋しました。
何故か?
昨日書いた、タレントの紗栄子さんの500万寄付ネット炎上についてですが…
紗栄子さん本人は、
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160421-00000051-dal-ent
紗栄子、「偽善」批判は承知の上だった 「私は何を言われても大丈夫」
と気丈にふるまわれていました。
素敵だ。良かれと思ったことを批判されても自分の意志を貫ける。
というか、本当にワケ分かんないんですよね。
叩かれる意味が…
しかし、それにはこんなメカニズムがあるのです。
ファンブログから過去記事を転記しました。
ベッキー不倫騒動の頃の記事です。
>
>
>
>
“ベッキー叩き”のみならず、相手を思い通りに動かそうと考えてしまう、「外的コントロール心理学」の罠とは?
前回のブログで、ベッキーの不倫騒動へのバッシングがあまりにも酷すぎる事を指摘しました。
今回も引き続き、このことに関して書きたいと思います。
前回記事で引用した、産業カウンセラーの後藤和也さんの記事引用文を今一度書くと、
それにしても、ベッキーさんや不倫相手とされる男性歌手に対する怒りのエネルギーはすさまじいものだ。
中には「お前なんか死んでしまえ」と言わんばかりの内容すらある。目を覆いたくなるような記述も目立つ。
確かに、不倫という事実があったとすれば、社会的な制裁や批判を免れるものではないだろう。特にイメージで売っている芸能人であれば、なおさらだ。
ただし、一義的に批判をすべき関係者とは、裏切られた配偶者や金銭的な損害を被るスポンサーなど、限られたメンバーになろう。
いかに芸能人相手とはいえ、不特定多数の無関係者が石を投げ、鞭で打ち、健康を害するような状態まで追いやるようなことは、許されるものではないはずだ。
そうなんですよ、許されない行為なんですよ。
私は、ベッキーの不倫以上に、バッシング行為そのものを腹立たしく思うわけです。
何せ、有ること無いこと、憶測や思い込みに過ぎないかもしれない事を書きたて、
一方的に罵るんですから…
ベッキー自身のブログで、声援を送るコメントが5000件以上寄せられたことについても、
「どうせ、自分に都合のいいコメントだけ承認してるんだぜ」
「都合の悪いコメントはあらかた削除してるよ」
と、憶測のみで書かれているコメントが目立ちました。
というか、実際あなた方はその作業現場を見たの?
と逆に聞きたくなりました。
というか、公式とはいえ自分のブログです。
荒れるのを防ぐため、承認制にして誹謗中傷コメを削除するのはむしろ当たり前のこと。
それすらも許されないのか?
憶測でさも事実のように言ってバッシングを繰り返す
まるで「講釈師、見てきたように嘘をつき」だな。
それでは、なぜこのようなバッシングを人はしてしまうのでしょう。
ヒントは、この本に出てくる「外的コントロール」という心理学にあるのではないかと思います。
人間関係をしなやかにする たったひとつのルール はじめての選択理論
(選択理論とは何ぞや?というのは、詳しくは過去記事にて!
【読書記事】選択理論とはなんぞや?「人間関係をしなやかにするたったひとつのルール」渡辺奈都子・著
http://fanblogs.jp/vermilionhands2015/archive/274/0?1454713921
【読書記事】「外的コントロール」よりも「選択理論」が優れているのは…?今からでもビジネスに応用できますよ!
http://fanblogs.jp/vermilionhands2015/archive/276/0?1454713991)
選択理論とは、アメリカの精神科医、ウイリアム・グラッサー博士によって提唱された理論で、
私たちがいかに幸せを選び取るかを説明する心理学です。
その一方で、本書の中で「選択理論」と対極的な考え方のある心理学も紹介されています。
それが「外的コントロール心理学」です。
選択理論が「人は自分の行動しかコントロールすることはできない」というものであるのに対し、
外的コントロール心理学は「人を自分の期待通りにコントロールしようとする考え方」です。(「期待通り」を「都合通り・思い通り」に言葉を変える事も)
そしてこの心理学でもっとも気を付けなければならないのが、
外的コントロール心理学においての3つの信条の、その三番目
第三信条の
「私の言う通りにしない人を馬鹿にし、脅し、罰を与える、
あるいは言うことを聞く人に褒美を与えることは正しいことであり、私の道義的責任である」
グラッサー博士によると、この第三信条こそが最も問題で、
これによって多くの不幸が起こっていると言います。
なぜなら、この第三信条には「私の正しさ」「私の道義的責任」が含まれているからです。
今回のベッキーへのバッシングに置き換えてみると、
「妊娠中の妻を持つ「ゲスの極み乙女」Vo・川谷との不倫をし、反省の色が見られないベッキーを、
バッシングし、誹謗中傷し、そのベッキーを擁護する芸能人、もしくはバッシングを危険視する記事があれば、それはすなわちベッキーや不倫を容認する者としてバッシングする。
被害者は川谷の妻であり、ベッキーは加害者だ。その加害者をバッシングするのは私の正しさであり、私の道義的責任である」
ということにでもなるのだろうか?
そりゃ、不倫をした芸能人を、どれだけ叩いても個人的に非難されることはあまりないのかもしれないね。
しかしそれは、自分の考え方を一方的に押し付けるものに他ならないのではないか?
自分の独りよがりな正義感で、直接関係の無い第三者が人をバッシングするのは、
みっともないと思いますが…
皆さんは如何思われますか?
>
>
>
>
とまあ、こんな記事でした。
今回の紗栄子さんの件とは全くケースは違うのですが、
(ベッキーと比較するのも紗栄子さんに申し訳ないのですが)
メカニズムはそう違いは無いのではと。
ただ、ヤフコメでも紗栄子さんの行動を高く評価する向きもあり、
その点はまだ「捨てたもんじゃないな」と嬉しく感じたカズでした。
読書日記ランキングへ