【読書記事】哲人の真意と反論!「幸せになる勇気」岸見一郎/古賀史健・著
2016年06月24日
おはようございます。
ブログ管理人のカズです。
いつも当ブログをご愛顧いただきありがとうございます<(_ _)>
http://fanblogs.jp/vermilionhands2015/category_7/
過去の読書記事(ファンブログ)はこちらから
さて、前回の続きですが…
本書の「哲人」は、過去のトラウマや悲劇にとらわれている人を、
「悲劇の安酒に酔っているだけ」と痛烈に批判しました。
それは何故なのでしょう?
「哲人」いわく、
カウンセリングで訪れる人の大半は、
「悪いあの人」
「かわいそうなわたし」
いずれかの話に終始するそうです。
そこで必要なのは、
「これからどうするか?」という視点。
カウンセリングで、相手に同調すれば、
それは一時の癒しは得られるでしょう。
しかし、それでは本質的には変わらないのではないか、と。
つまり、
どれだけ泣き言(「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」)を訴えても、
そこに語るべきことは何もない。
泣き言を繰り返し、それに終始しても何も変わらないし、
安易な「同調」は、カウンセラーへの「依存」をうながすだけ。
だからこそ、「これからどうするか」を語り合うことが大事、だと。
うむ、確かにそうかもしれませんね。
「これまでの自分」ではなく、「これからの自分」を語り合うことは、
とても建設的だと思います。
あれっ?
反論せんの、俺?(~_~;)
いやいや、本題はここからです。
誤解のないように言っておきますが、
私は、哲人の意見を、
アドラー心理学を頭から批判するつもりはありません。
うなずけるところ、理解、納得できるところは沢山ありますし、
手に取ってよかったなとも思います。
ただ、私が許せない、納得行かないと思うのは…
語り合うべきことは無いと、
「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」を聞き流すことです。
それらを聞き流すことは、
相手の「存在価値を否定する」ことに他ならないのではないかと。
下手すれば、カウンセリングの結果が逆に「自己評価の低下」につながるかもしれないのではと。
たとえ聞いても、本質的には変わらないだろうし、
カウンセラーへの「依存」にもつながるかもしれない。
しかし、「自己評価の低下」よりもまだ「依存」の方がずっと良い!
癒され、元気になれば、少しは前へ向けられるから。
人は「聞いてほしい」んです。
語り合うことは無くてもいいんです。むしろ邪魔。
ただ、話を聞いて、「そうだね~」と共感してほしいんです。
たとえ一時の癒しでもいいんです。
アドラー心理学では、「依存」を否定していますが、
私は、ちょっとくらいは「甘え」や「依存」があってもいいと思います。
アドラー心理学は、心理学と言いながらも、実際は「哲学」ではないかと、
本書を見て思いました。
かなり理想論的なことが書かれていると感じます。
理想をそのまま具現化するのは、確かにたやすいことではありませんし、
「前へ踏み出す勇気」も必要でしょう。
ですがね…
そこまでしてアドラーの理想に従うことなんだろうかと、ふと疑問がわきました。
本当に幸福につながるのかと?
「こうあるべき!」が多すぎる気がするんですよね。
特に、本書の「哲人」の論調は、本当にイライラするんですよ。
(何度、本書を閉じようと思ったことか…)
もっと自由に、楽しく、ワクワクしながら生きてもいい。
自立を目指しながらも、時には「甘え」だって「依存」だっていいじゃない。
日々、生きていること、生かされていること、
友達や職場のみんなに感謝しながら、
あまり悩まずに生きていこう。
人生、楽しもう!
そんなことを考えさせられた本書でした。
劇薬ですが、自分の「幸福」「人生」を見直せる書だと思います。
岸見一郎さんの著作を楽天で探す


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ブログ管理人のカズです。
いつも当ブログをご愛顧いただきありがとうございます<(_ _)>
http://fanblogs.jp/vermilionhands2015/category_7/
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「悲劇の安酒」を否定する哲人の真意。
それは、「これからどうするか?」を考えることにある。
それにたいする反論は?
それは、「これからどうするか?」を考えることにある。
それにたいする反論は?
さて、前回の続きですが…
本書の「哲人」は、過去のトラウマや悲劇にとらわれている人を、
「悲劇の安酒に酔っているだけ」と痛烈に批判しました。
それは何故なのでしょう?
「哲人」いわく、
カウンセリングで訪れる人の大半は、
「悪いあの人」
「かわいそうなわたし」
いずれかの話に終始するそうです。
でも、
我々が語り合うべきことは、ここにはないのです。
あなた(青年)がどんなに「悪いあの人」について同意を求め、
「かわいそうなわたし」を訴えようと、
そしてそれを聞いてくれる人がいようと、
一時のなぐさめになりえても、本質の解決にはつながらない。
(p71)
そこで必要なのは、
「これからどうするか?」という視点。
そう、
われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。
「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。
あなたがどんなに大きな声でそれを訴えても、私は聞き流すだけでしょう。
(p73)
カウンセリングで、相手に同調すれば、
それは一時の癒しは得られるでしょう。
しかし、それでは本質的には変わらないのではないか、と。
でも、
それで明日からの毎日がどう変わるのか?
また傷ついたら癒しを求めたくなるのではないか?
けっきょくそれは「依存」ではないのか?
…アドラー心理学では、「これからどうするか」を語り合うのです。
(p73)
つまり、
どれだけ泣き言(「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」)を訴えても、
そこに語るべきことは何もない。
泣き言を繰り返し、それに終始しても何も変わらないし、
安易な「同調」は、カウンセラーへの「依存」をうながすだけ。
だからこそ、「これからどうするか」を語り合うことが大事、だと。
うむ、確かにそうかもしれませんね。
「これまでの自分」ではなく、「これからの自分」を語り合うことは、
とても建設的だと思います。
あれっ?
反論せんの、俺?(~_~;)
いやいや、本題はここからです。
誤解のないように言っておきますが、
私は、哲人の意見を、
アドラー心理学を頭から批判するつもりはありません。
うなずけるところ、理解、納得できるところは沢山ありますし、
手に取ってよかったなとも思います。
ただ、私が許せない、納得行かないと思うのは…
語り合うべきことは無いと、
「悪いあの人」と「かわいそうなわたし」を聞き流すことです。
それらを聞き流すことは、
相手の「存在価値を否定する」ことに他ならないのではないかと。
下手すれば、カウンセリングの結果が逆に「自己評価の低下」につながるかもしれないのではと。
たとえ聞いても、本質的には変わらないだろうし、
カウンセラーへの「依存」にもつながるかもしれない。
しかし、「自己評価の低下」よりもまだ「依存」の方がずっと良い!
癒され、元気になれば、少しは前へ向けられるから。
人は「聞いてほしい」んです。
語り合うことは無くてもいいんです。むしろ邪魔。
ただ、話を聞いて、「そうだね~」と共感してほしいんです。
たとえ一時の癒しでもいいんです。
アドラー心理学では、「依存」を否定していますが、
私は、ちょっとくらいは「甘え」や「依存」があってもいいと思います。
アドラー心理学は、心理学と言いながらも、実際は「哲学」ではないかと、
本書を見て思いました。
かなり理想論的なことが書かれていると感じます。
理想をそのまま具現化するのは、確かにたやすいことではありませんし、
「前へ踏み出す勇気」も必要でしょう。
ですがね…
そこまでしてアドラーの理想に従うことなんだろうかと、ふと疑問がわきました。
本当に幸福につながるのかと?
「こうあるべき!」が多すぎる気がするんですよね。
特に、本書の「哲人」の論調は、本当にイライラするんですよ。
(何度、本書を閉じようと思ったことか…)
もっと自由に、楽しく、ワクワクしながら生きてもいい。
自立を目指しながらも、時には「甘え」だって「依存」だっていいじゃない。
日々、生きていること、生かされていること、
友達や職場のみんなに感謝しながら、
あまり悩まずに生きていこう。
人生、楽しもう!
そんなことを考えさせられた本書でした。
劇薬ですが、自分の「幸福」「人生」を見直せる書だと思います。
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